らしいね南城市

琉球創世の歴史が南城に!「サキタリ洞人」「アマミキヨ」「尚巴志」からルーツを探る

琉球
はじまり

旧石器時代から縄文時代以降の人骨や石器、貝のビーズなどが見つかっているサキタリ洞遺跡。
世のはじまり、創世神アマミキヨによって創られたとされる琉球。
時は進み14世紀後半、南山・中山・北山の3つの勢力を尚巴志が統一し、琉球王国が誕生した。

それぞれの時代は違えど、琉球創造の起点からのちの琉球王国誕生の由来が南城に残されている。
「サキタリ洞人」「アマミキヨ」「尚巴志」の歴史から琉球を紐解く。

サキタリ洞・ガンガラーの谷

歴史的大発見!旧石器時代の人々に迫る新たな手掛かり
どうじん
サキタリ洞人

サキタリ洞調査区

ガンガラーの谷の入り口にあるサキタリ洞遺跡。
サキタリ洞では日本で初めて旧石器時代の人骨と石器が同時に発見された。これは沖縄の旧石器文化の解明に大きな前進をもたらした。サキタリ洞の調査区ⅠのⅠ層(約13,000~16,000年前)とⅡ層(約20,000~23,000年前)から出土したサキタリ洞人の暮らしぶりは、長く未解明であった沖縄における人類史の空白を埋めるものとしても重要であり、大きな注目を集めている。

サキタリ洞人
※イメージ図

サキタリ洞調査区

近年の調査で、調査区ⅠのⅠ層(約13,000~16,000年前)から石英製の石器と人骨が見つかった。洞窟周辺には石英は分布していないため、少なくとも30キロメートル以上離れたところから洞窟にもたらされたものと考えられる。
Ⅱ層からは、ギンタカハマという巻貝で作られた14㎜の世界最古の小さな釣り針(約23,000年前)やマツヤマワスレという二枚貝を使った扇型の貝器、ツノガイのビーズといった多様な貝製品が見つかった。こうした遺物は火山灰起源の堆積物に覆われた日本列島の多くの地域では遺跡に残ることはほとんどないが、隆起サンゴ礁を起源とする石灰岩の大地が広がる南城市にはこうした貴重な旧石器時代の遺物が豊富に残されているということが明らかになってきた。発掘調査は現在も継続中であり、続々と新たな発見がもたらされ、今後の動向にも大きな期待が寄せられている。

サキタリ洞調査区

サキタリ洞調査区

サキタリ洞調査区

発掘貝製品
沖縄県立博物館・美術館所蔵資料

沖縄県立博物館・美術館所蔵

沖縄県立博物館・美術館所蔵資料

沖縄県立博物館・美術館所蔵

調査区ⅠのⅡ層では、洞窟直下を流れる雄樋川で採れるモクズガニの爪、カワニナの殻、ウナギの骨も見つかっている。それらには火を受けて変色したものもみられることからサキタリ洞人の食生活の一端も明らかになった。このほかにもブダイやアイゴといった海の魚の骨も見つかっており、サキタリ洞人がイノシシや鳥といった鳥獣類よりも川や海にいる水産資源を積極的に利用していたことが分かった。

ヤハラヅカサ

琉球の大地を創り、人々を生み出した創世神
アマミキヨ

アマミキヨ
※イメージ図

はるか遠い昔、アマミキヨはニライカナイ(常世の国)よりシネリキヨとともに降り立ち、国づくりをはじめた。
天帝に求めて男女をつかわし、新たに三男二女が誕生。長男は天孫氏(幻の王統)、次男は按司(古琉球時代の首代)、三男は百姓の氏(人民)となり、長女は君々(高級神女)、次女は祝女(女性の祭司)のはじまりとなって、国は栄えていった。
アマミキヨは、ある浜に流れ着いた五穀の壺から穀物をまき、やがて琉球に穀物が広まっていったと伝えられる。

【参考文献】
・蔡鐸本「中山世譜」(著者:原田禹雄 訳注/1998年発行)
・おもろさうし(著者:外間守善/1985年発行)

久高島

久高島

アマミキヨがニライカナイからはじめに降り立ったとされる場所。島内にはアマミキヨが降り立ったといわれる「カベール岬」、琉球開闢(かいびゃく)の七御嶽の一つ「フボー御嶽」、五穀の壺が流れ着いたと伝わる「イシキ浜」などの聖地がある。

浜川御嶽

ヤハラヅカサに第一歩をしるし、浜川の清水で身を清め、付近の岩穴に仮住まいしたとされる場所。その後、南城市玉城字仲村渠にあるミントングスクに移動し、安住の地としたと伝えられている。

浜川御嶽

ヤハラヅカサ

ヤハラヅカサ

ニライカナイから久高島を経て、沖縄本島へ渡る第一歩として降り立ったとされる場所。ヤハラヅカサはニライカナイへのウトゥーシ(遥拝所) の聖地でもある。

玉城城跡

玉城城跡(たまぐすくじょうあと)

築城年代や城主などははっきりとわかっていないが、琉球王府編纂(へんさん)による琉球国由来記に琉球創世神アマミキヨが築いた琉球最古の城跡と記されている。

斎場御嶽(せーふぁうたき)

斎場御嶽(せーふぁうたき)

七御嶽の一つ。琉球王国最高神女である聞得大君(きこえおおきみ)の就任儀礼が行われ、琉球最高の聖地と崇拝されてきた。

佐敷城跡

琉球統一を果たした尚巴志王、ゆかりの地を巡る
しょうはし
尚巴志

首里城・守礼門

14世紀頃、北山・中山・南山と呼ばれる3つの勢力に分断され、戦乱の世を迎えていた。
琉球統一を目指した尚巴志は父・尚思紹(しょうししょう)とともに中山王の武寧(ぶねい)を滅ぼし、浦添グスクを攻め落とした。父・尚思紹が中山王に即位し、力を蓄えた尚巴志は1416年に今帰仁グスクを攻め落として北山王の攀安知(はんあんち)を滅ぼす。
尚思紹の死後、尚巴志は中山王に即位し、1429年に南山王である他魯海(たるみ)を滅ぼし、琉球統一を果たした。

尚巴志
※イメージ図

佐敷城跡(さしきじょうあと)

琉球を統一した尚巴志とその父である尚思紹の居城跡といわれている。敷地内には佐敷ノロ殿内、内原の殿(上グスクの殿)、カマド跡などがあり、広場から鳥居をくぐって階段を上がっていくと拝殿、その奥にはつきしろの宮の本殿がある。
本殿には、佐銘川大主(さめがわうふぬし)を大祖に第一尚氏王統の八神が祀られている。

佐敷城跡

佐敷城跡

島添大里城跡

島添大里城跡
(しましーおおざとじょうあと)

14世紀頃、島尻地域の東半分を支配していた島添大里按司によって築かれた居城跡。
尚巴志と父・尚思紹によって攻め落とされた。この地に拠点を移した尚巴志による三山統一の足掛かりとなった。

佐敷ようどれ(さしきようどれ)

佐敷ようどれと呼ばれるお墓には、尚巴志の父である尚思紹とその家族が葬られていると伝わっている。はじめは佐敷城近くの崖下にあったが、風雨による損壊で1764年にこの地に移され、現在は航空自衛隊・知念分屯基地内に存在している。

佐敷ようどれ

南城の旅から知る、琉球創造の歴史

南城の旅から知る、
琉球創造の歴史

南城市では現在でも、サキタリ洞遺跡(沖縄県実施)の発掘調査が継続され、アマミキヨの神話に基づく信仰を伝える聖地が数多く残されている。
また、琉球を統一した尚巴志ゆかりの地として、史跡を中心に巡るコースもあり、まちを散策していると様々な歴史・文化に触れることができる。
歴史に溢れた南城市で、ガイドツアーに参加するなど、
各所をまわりながら新たな観光を楽しんでいただきたい。